わたしの感想です

 3月26日発売の、朝井リョウさんの新刊、「正欲」を読んだ。

正欲

正欲

 

 

帯には「読む前の自分には戻れない」とあった。たしかに、読み終わった後は呆然とし、今まで見てきたもの感じてきたものが覆されるような、そんな予感があった。

 

「多様性」はとても耳ざわりの良い言葉だ。

多様性のある世界、多様性を認めよう、「多様性」という一言を入れれば、器の広い自分をアピールできる。今の時代に順応した自分であると思える。

わたしも、この小説を読むまでは、まったく違和感なくその言葉を受け入れていた。

 

わたしは、どちらかと言えば自分はマイノリティ側の人間であると自負して生きてきた。

家庭環境も、性格も、物事の捉え方も。

だから、ひとと接することを「ふつうに」楽しみ、当たり前のように友達ができて、なんの疑問も持たずにこの世界で生きていけるひとのことを、自分とは違う、このひとたちには何を言ったところでわからないだろう、と思っていた。

そんな「マイノリティ側」の自分でさえ、多様性という言葉に違和感を抱かず、むしろ歓迎すべき言葉であると思っていた事実を突きつけられた気がしたのだ。

今まで、考えているようでなにも考えてなかったんだな、と。

「多様性」という言葉が浸透するなかでも、そのなかに内包されずにいる思考があること。多様性とは、個々人の想像の範囲内での「多様性」であること。その言葉でだれかを守っているようで、一方ではだれかを余計に傷つけていること。

 

 

じゃあもう、みんな他人に関わらなければいい。

他人がどう思おうが、どういう背景でどんな環境で生きていようが、興味がない。そんなことを根掘り葉掘り聞きだそうとするひとの神経がわからない。

投げやりな気持ちでそう思った。でも思った瞬間、いや違うな、と気づいた。

 

他人とまったく関わらずに生きるなんて不可能だ。それを望むか否かは関係なしに。

生きていくにはどうしたって他人と関わる機会がある。

そして、そのひとのことを傷つけないためには、そのひとの抱えているものを知らなければいけない場合だってある。だって自分の想像には限界があるから。

 

わたしは、だれかのことを傷つけるのがこわくて、言葉を発するときはいつも慎重になる。ひとつひとつの会話で言葉を選んでいるので、自然と口は重くなるし、そうするのが面倒で、ひととあまり会話をしないようになった。

だけど、世界がみんなわたしのように口をつぐんでしまったら、世の中はまわらない。話したくなくても話さなければいけない、傷つけたくなくても、そんなつもりなくても、傷つけてしまうことはどうしたってある。

 

だから、「多様性」という、正しいようで実はとても曖昧な言葉でくるんで、結局見ないようにしてしまうのではなくて、相手の背景にあるものを、ひとつひとつ想像していくしかないのではないか。それがたとえ面倒でも。

結局自分とまったく同じ思考の人間なんていない。わたしも、一番近くにいるひとにさえ言えない部分がたくさんある。それは、言ったところでわからないだろうなと諦めてしまっている部分である。

たしかに言ったところでわからない。でも「言ったところでわからない部分を抱えているのは自分だけではない」という事実を知るのと知らないのとでは大きく違う。

 

作中でも、登場人物が、「こんな思考をするのは自分だけだ」と悩んでいたところに、同じ悩みを抱えたひとと出会い救われた気持ちになっていくところが描かれている。

ひとにはどうせわからない、と気持ちを閉ざしてしまうのは簡単だが、「自分と同じ」存在に出会うことは、こんなにも、心を救われることなのだ。自殺を思いとどまるほどに。

だから、わたしはひとと話すのが苦手だけれども、これからも相手のことを想像したいし、自分とはまったく違う考えであってもそれを知りたいし、もし自分と同じ考えをもつひとに出会えたら、喜んで、ひとつずつそれを見せ合いたい。

 

それにしても、朝井リョウさんはどうしてこんなに、わたしが今まで言葉にできなかったもやもやを文章にして、物語にすることができるのだろう。

パッと見、早稲田卒で、ダンスサークル所属で、エッセイを読んでも友達がたくさんいることがわかって、わたしにとっては朝井さんはマジョリティ側のなかでも特に中心にいるようなひとであるように見えるのに、マイノリティ側の抱えるものを書くのが、どの作品でも本当にうまい。

世の中の大部分がなんとなく見過ごしてきたようなことを、ずばりと書いてしまうから、こちらも見抜かれた気持ちになる。

 

10周年記念にふさわしい、素晴らしい作品でした。